デザインシンキングの実践
大前 謙 パナソニック ホールディングス株式会社 事業開発室 .d Loonshots Studio Creative Director
「Eat Takeaway」は、世界で活躍するブランドリーダーやマーケティングリーダーに直近の抱負と課題を教えてもらうシリーズ。インタビューから得られた学びを「Takeaway」として読者のみなさまにお持ち帰りいただきます。

今回登場するのは、パナソニック ホールディングスの大前謙氏。プロダクトデザイナーとして数々の人気家電製品を手掛け、現在はパナソニック ホールディングスで新規事業開発に携わっています。多彩な経験とシリコンバレーでの出会いから学んだデザインシンキングについて、実践のヒントを教えていただきました。
プロダクトデザイナーとしてのご経歴は?
多摩美術大学でプロダクトデザインを学び、2004年に松下電器産業(現パナソニック)に入社しました。家庭電化製品のデザイナーとして、日本市場はもちろん海外市場向けの製品も担当してきました。アクティブシニアや30代の単身者など、特定のターゲット世代に向けた家電のデザインにも多く関わりました。その後、ASEAN諸国向けの家電を開発するデザインセンターのマネージャーとしてマレーシアに赴任したこともあります。
入社した2004年から2017年の約13年にわたって、プロダクトデザイナーとして製品開発に関わりました。さまざまな市場や顧客層に向けた製品をデザインする過程で、お客様のお困りごとを抽出しながらソリューションを導き出してきました。そのプロセスへの深い関心がさらに高まり、現在の事業開発にもつながっています。
思い入れのある製品開発プロジェクトは?
スチームオーブンレンジの「ビストロ」シリーズです。2013年発売のモデルから現在の基本骨格となったのですが、開発の最初期段階からリードデザイナーとして関わることができたプロジェクトでした。当時、商品のコンセプトをゼロから定義したいと思い、日本国内のみで考えるのではなく、オーブンの本場である欧州の視点も取り入れるため、イギリス・ドイツ・フランスのキッチンや調理器を調査しながら、イタリアのミラノで数ヶ月を過ごしました。
特に料理好きなイタリア人たちとは実際に日本の茶わん蒸しやパンなどを作って食べました。その中で「日本のオーブンは温めたり焼いたりスチーム機能もあるんだ! 料理もとても美味しい。これは日本らしさの詰まったスマートなオーブンだね。もしこの機能を維持してコンパクトになったら世界中のキッチンカウンターに置けるよ!」というコメントなどをもらってだんだん方向性が見えてきました。日本のキッチンに特有のスペースの課題も解決し、「多機能でコンパクトな楽しさを追求したビストロシリーズ」という商品コンセプトを新たに立案。それを実現する商品を企画やエンジニアと共に開発をしました。おかげさまでビストロシリーズは長らくご愛顧いただける商品となりました。

新規事業開発に転じたきっかけは?
プロダクトデザイナーを志したときから、家電や車などの工業製品はデザインをする対象として社会的なインパクトが大きいものだと思っていました。キャリアの中でいくつか商品のデザインの経験を積むにつれて、ビジネスをデザインする社会的インパクトの大きさと魅力に徐々に気づいていったのです。その気づきが確信に変わったのは、2017年から2020年の間にアメリカ・シリコンバレーにあったPanasonic βという新規事業開発組織の活動に参画した時でした。
ユーザーのお困りごとから着想したアイデアと、最新のテクノロジーによる最善の解決策を見つける楽しさに気づきました。その解決策が優れていれば、次の世界をリードするビジネスにもなり得る。シリコンバレーのスタートアップは、まさにそんな可能性を体現して見せてくれました。
デザインすべき最大の対象はビジネス。
またこの間に、スタンフォード大学のデザインシンキングの提唱者である教授に出会う幸運なめぐり合わせもありました。教授の学科の公開研究発表の交流会で隣に座っていた高齢の方がその教授だとは気づかず、耳が聞こえづらいようでしたので私がスケッチで今のテーブルの話題をお伝えしていました。すると交流会の締めの挨拶が責任者であるご本人だとわかって驚きました。その教授にデザインシンキングを学びたいとダメ元で言ったら「君は私が分かりやすいようにスケッチをしてくれた。明日研究室に来なさい」と言われ、ゼミも紹介していただきました。毎週水曜日の夜6時から、スタンフォード大学に客員研究員という形で通う日々が始まりました。
デザインシンキングはどんな分野?
スタンフォード大学工学部の中に、デザインシンキングを教える学科があります。デザインシンキングの発祥としては諸説ありますが、私がスタンフォード大学にいる時に先生や同級生に聞いた話によると、工学部の研究がよりユーザーにとって為になるものになるようにデザイナーの思考法を取り入れたデザインシンキングという手法が確立されたようです。デザインシンキングのフレームワークは「共感→課題定義→アイデア→試作→検証」の5ステップとシンプルですが、ユーザーの顕在化・潜在化したお困りごとを抽出して最適解を生み出すという本質は、新規事業などの新しいビジネス創出とも相性が良いと思います。

スタンフォード大学で得られた学びは?
デザインシンキングの知識やフレームワークを知るための著書は世界中どこでも購入できますが、その本質に触れながらの実践する機会は多くありません。さまざまなケーススタディを通じて「曖昧さを許容すること」や「失敗を喜ぶこと」といったマインドセットを教わりました。特に印象的だったのは「コンフリクト(摩擦)を歓迎しろ」という教え。イノベーションを目指す実力者たちが集まるほど、さまざまな摩擦は避けられません。でも先生は「コンフリクトはいわば飛んでいる飛行機のタービュランス(乱気流)だと思え」とおっしゃいました。「乱気流に出会うのは飛んでいる証拠なのだから、うまく舵を取って目的地まで進め」というアドバイスです。常に優秀で想いも個性も強いメンバーと共創しているので、非常に参考になっている教えのひとつです。
現在取り組んでいる事業開発の実例は?
2024年度までは「ペロブスカイト太陽電池」という次世代エネルギーの事業開発に参画していました。研究者たちの成果から生まれた新しい技術ですが、先端技術は時として私たちの暮らしをどのようにより良くするか分かりづらい時がありますので、それが持つ価値を伝えるには工夫が必要です。この技術がお客様にどんな価値を提供し、暮らしをどのように変えていくのか。デザインシンキングも交えながら、技術の価値を翻訳してストーリー化します。パナソニックでは、ペロブスカイト太陽電池を「まち・くらしに調和する『発電するガラス』」と位置づけて事業化に向けて進んでいます。そして2025年度の私はまた別の新規事業プロジェクトを推進していますのでご期待ください。

事業開発におけるデザインシンキングの活用法は?
新規事業の価値を翻訳する作業で必要となるのが、デザインシンキングのプロセスでもあるタンジブルプロトタイピングとしての言語化、視覚化、触角化です。言語化は、コンセプトや文章で世界観を伝えること。視覚化は、製品のイメージをCGなどでビジュアルに描き出すこと。触覚化は、立体の模型やワーキングサンプルを造ること。まだ純粋な技術でしかない研究の成果がお客様にどんな価値を提供できるのかを早期から細かく検証し、研究者に意見をフィードバックする作業でもあります。
人類の未来で変わっていくことと、ずっと変わらないことは?
変わっていくのは、社会の「当たり前」です。シェアリングエコノミー、ダイバーシティ、働き方改革など、僕が学生だった頃から世界は大きく変化しました。これからも人々の価値観が変わっていくし、どんどん新しい「当たり前」が出てくるでしょう。
逆に変わらないのは「お困り事と解決策の関係」です。人々の暮らしが変容しても、人間の基本的な感情は不変であるはず。世界が便利に変わっても、小さな課題が完全になくなるようなことはありません。課題を抱いている人たちが取り残されないように、解決策は常に生み出されていきます。必ずそこにあるお困り事を逃さないようにするのが、ビジネスや製品のデザインに不可欠な視点です。
お客様が欲しいものではなく、お客様のためになるものを。
ビジネスのデザインで大切なことは?
パナソニック創業者の松下幸之助は「お客様のお困り事にまず目を向けなさい」と言われています。また「お客様が欲しいものではなく、お客様のためになるものをご提供しなさい」という言葉も知られています。またシリコンバレー発祥の有名テック企業の創業者も同じことを言っていましたね。実物を見せられるまで、お客様は本当に自分が欲しいものを知らないものだと。
人は自分の本当の感情や悩み、困りごとをなかなか把握できないものだと思うんです。またAIやWeb3のような先端技術も見たり触ったりできません。世の中は見えないというのが常だとすら感じています。でもそんな中でデザイナーには、見えないものや触れないものを掴み取る感受性と観察力、またそれらをタンジブルなものに置き換えて伝えるスキルがあります。私の究極のやりがいは、まだ見つけられていない課題を見つけること。そして未知の課題に最適解を見つけ出して提供すること。その結果、みんなに「これが欲しかったんだ」と言われたら大成功です。デザインシンキングとトライ&エラーを続け、未来の新しい当たり前(つまりビジネスの原石)を見つけたいと思っています。
Eat Take-Away
摩擦を恐れるな。
大きな目標に向かっているときに起こる対立や摩擦は、プロジェクトが前に進んでいる証拠。うまく舵をとれば抜け出せると信じ、クリエイティブに解決策を考え出しましょう。
遠慮せずに飛び込め。
デザインシンキングの創始者の教授は、いわゆる「凸してくる」人が大好きなようでした。学びたい相手がいたら、情熱をぶつけて教えを請いましょう。驚くほど豊かな学びの扉が開きます。
未知の課題を探せ。
顧客が欲しいものではなく、顧客のためになるものを提供するのが松下幸之助の教え。社会と消費者のニーズを深く分析することで、未知の課題と解決策を探りましょう。
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